蓮の葉ブログ

逢坂の蓮ちゃんが日々悶々としていることを書きなぐるブログ

自己顕示欲の死に方

 

22歳にもなって言うことではないが自己顕示欲と承認欲求に悩まされている。

若くてみずみずしい才能が羨ましくて仕方がない、私ができない人間だとは言わない、言わないけれど私の努力を涼しい顔で通り抜けていく若い才能にどうしようもなく無力感を感じる。

何もかもできないわけじゃない、できることとできないことの判別をつけている。私がやらなきゃいけないことはできるに超したことがない。何もかもの可不可をつけた後に何もかもを可能にしてしまう努力に腹が立つ。

私はいちいち悩んでしまう性格で、うじうじとこれでいいのだろうかと考えてしまう、その間に努力ができる、それが才能なんだろうか。でも私は、悩む時間が何より愛おしい、私は後ろ向きである自分のことが大好きで、そして何より前向きなことが愛おしい。私は素敵になりたいから若い才能を妬むのであって、何も無ければ何も思うことがないのだろう。向上心は死なない。私を認める為じゃなくて、第三者が私を認める為の。それはとっても虚しい。し、なんだかずるいと思う。第三者のために私は素敵な人間になりたいかと言われるとその答えは半々で自分のためにも、人のためにもなんて思うけど結局は人によく思われる自分の為でしかないと思う。そもそも人のために無条件で何か出来るわけが無い。何かしら繋がりがないと赤の他人に優しく声をかけて認めてもらおうなんて絶対に変な人だと思われるよな。でもなんかどうせ人生1回しかないし、なんでもいい気がしてきた。この選択をしなかった人生がどうなるか私には知る由もない。死ぬまで選択し続けた人生を歩んでいく。それも、誰かの筋書なんかじゃなくて私の道で。なんかそんなのに世間体も何もいるんだろうか、なんというか、私は神になりたいというとかなり語弊があるけど、どうせ私もあなたも人間の域を超えない。結局死んだあともどうなるのか分からない。ずっと続いていく歴史に対して私もお前も少しの間しか記憶できない。そもそもそういう人間がいたということすらその長い歴史では死んでしまう。それならもう何をしても自由だと思う。失うものも得るものも初めからない、苦痛も喜びも全部なかったことになる。究極的に簡素に言ってしまえば喉元すぎて暑さ忘れると思う。私たちは長い間悲しいことも嬉しいことも記憶できない少なくとも私はそう。そもそも私がの嬉しいことも悲しいことも私という人間を通してみる価値観の評価なので相対的に嬉しいも悲しいも評価される。結局、事象ってそういうことで、何か起きてもそれが悪いか良いかの評価は価値観を通すしかないと思うとうんこふんじゃったことも宝くじ当たったこともなんか全部、全部どうでも良くなる。

私が生きてるという認識も人間における生命活動に定義されているからで、もしかしたらこれは別世界では死んでると定義されているかもしれないと言うぐらいすごくあやふやで。その程度、その程度なんですよ。ほんとに。だから私にできないことは絶対ないし、できないことだらけでも社会的に生きてることをもう消したい自己顕示欲を消したい承認欲求を消したい。お前に認めてもらわなくても私の判断基準が私が全てだからです。