蓮の葉ブログ

逢坂の蓮ちゃんが日々悶々としていることを書きなぐるブログ

久しぶりの

 

誰かの人生を変えるほど私は素晴らしい人間では無い。かもしれない。

そう気づいた時の悲しみと絶望は何物にもなれない人の心の中に少なからずあるだろう。

何かになりたくてずっともがいてるけど、行動力も発信力もなくて、私は"られる"側なんだなって思う。別にそれが悪いことでもなんでもない。むしろ何かになれた人の方が生きづらかったりするかもしれない、私はなにかになれたわけじゃないから計り知ることは出来ても実際に感じることは出来ないからその生きづらさと何物にもなれない生きづらさを天秤にかけてこうだよと言うことは出来ない。

22歳、ほんとに何も無い。今あるのはバイトと勉強。それの何が悪いの?ってあと数年後には私には仕事しかなくなる。

仕事しかないことが悲しい訳でもない、ただただこれでいいのかなって思ってダメなんじゃない?って言われるのが怖いからなんにもないなんて言いたくない。

まるで楽しいことをしなきゃダメみたいな、いやコンプレックスなのかもな。楽しいことができなかった。

そもそも楽しいことってなんだろう。飽きっぽいから何やっても続かなかった。同じこと繰り返しても生産性がない。でもそれを繰り返してできる人が生産してる。気づいた時には遅かった。でもそうしてない人の方が多くて、みんな繰り返してやればよかったと思ってるんだろうか。

私は幸せですみたいな顔をして何物にもなれない生きづらさなんてほんとにないのか。考えたことも無いのかな。

何やってもダメなわけじゃない、だからといってすごくよくできる訳じゃない。それの何も悪くないけど、なにか物足りない。

とどのつまり飽きたんだろうななんにもない生活に。でも、これから何かある未来はない。

いきなり彼氏ができたり、いきなりスカウトされたり、いきなり友達が増えたりしない。

少しずつ同じこと繰り返してなにかが成される。その繰り返しにもううんざりする。

このまま死んでいくのではないかという恐怖で生活環境が変わった友達のTwitterを見て落ち着く。周りに友達がいないから呟きが多いから。

でもそんな友達も環境に慣れるとTwitterに浮上もしないだろうな。友達は積み重ねができるんだ。そうやって人間は社会生活を送っていく。

社会生活がこのまま送れなかったらどうしよう、もう22歳なのに。社会生活の積み重ねを怠惰の一言で蹴ってしまったらどうしよう。

不安になっても仕方ない。仕方ないで世界は連続している。不条理の積み重ねもまた社会だ。年齢っていうのがこんなにも恐ろしくのしかかってくるとは思ってなくて、22だけどもっと若くてすごい人はいるのにと思うと何が積み重ねか分からなくなる。例えば私が当たり前にできても私より若い子が当たり前にできるのなら私の代替人間は存在する。そもそも替えがきかない人間の方が珍しい。これは本当にそうだ。なのに人間はこぞってかけがえのない命だと、本当に仕方がないことだ。