蓮の葉ブログ

逢坂の蓮ちゃんが日々悶々としていることを書きなぐるブログ

突然ですが

 

突然ですが蓮ちゃんの読書感想文を辞めようか迷ってます。

というのも活字アレルギーが酷く無理して読むものでは無いのでは?という気持ちになってきました。

教養にはなるとは思うのですが、何か代わりに違うことでもしよかなあ…という気持ちです。

3日坊主になってしまってさーせん。

蓮ちゃんの読書感想文7/7

第3弾『はつ恋』ツルゲーネフ・イワン作 神西清

 

 

感想

 

普通によくある話では。恋は人を盲目にさせる。それも若いと尚更盲目に盲目を重ね、その人のことしか考えられなくなる。そういう経験を蓮ちゃんはしたことがあっただろうか、でも非常に読みやすくて共感しやすかった。彼女の眼中には入っていなくても、それでも彼女から貰う痛みすらも快感に変わっていく。しかし彼女が僕ではない誰かに恋をしていると知った絶望感。人間生きて、1度や2度は味わったことがあるだろうな、と思いました。

それ以外であまり考えさせられる部分はなく、恋愛とは人間の頭を錯覚させ、馬鹿にしてしまうものだと思います。それが恋です。恋をした相手になら、もう、何をされても構わないのです。若ければ若いほどその傾向にあるように思いますが実の所年齢など関係なく、如何に相手を崇拝しているか、そう、もはや恋ではなく崇拝なんですね。崇拝している、だからこそ何をされても、何をやられても嫌いにはなれないのです。それが初恋というものでは無いでしょうか。主人公は16歳という若さでその衝撃から抜け出せず今も独身であると作中の頭で書かれていました。もしかしたら、はつ恋というものは呪いのようなもので、いつまでもいつまでも記憶の中にこびりついた油汚れみたいなものなのかもしれません。なんにせよ、恋をするという経験の中で、失恋はあまりしたくないものですね。

蓮ちゃんの読書感想文7/6

 

第2弾 『変身』 フランツ・カフカ 作 原田義人  訳

 

感想

ある日突然襲ってくる不幸に耐えられるかどうか試されているメタファーなのか少しよく分からなかった。作者が意図して読み取って欲しいことを読み取れなかった、それは私の読解力の無さなのか、それは分からない。家族がもし、他の家族の居場所を脅かし自分たちを不幸へ落とす気はなくても、結果そうなってしまったら人間はどこまで家族のことを見捨てないでいられるのだろう。そして、人間である自分を自分たらしめるものは一体なんなのか、過去なのか、それとも外見なのか、そういったものが一切なくなってしまったらそれはもはや自分だと言いきれるのか、また家族から見て、それは元の家族だといえるのか、なんとも難しいテーマである。

グレゴール氏がただただ何もしていないのに不幸にも虫になってしまって、そのまま結末を迎えたことは第三者の私から見たらただただ不幸なお話、で終わってしまう。しかし、グレゴール氏の父母妹といった家族にしてみたらどうだろう、最終的には喜びもう苦しまなくていいと明るい未来に動き出していた。ここで、グレゴール氏の視点で考えてみることがこの作品の本質なのではないかと思う。人間でなくなってしまった自分。人間であった自分を無くしてしまった自分。もう何がなんだか分からず食欲もなく、部屋でずっと固まって居間で家族が働いているのをただ眺める毎日。そんな生活をこれ以上続けることが本当に幸せなのだろうか。人間は生きていればいいことがあるとよく言う。実際に私も何度も落ち込んだ時に周りの友人や家族からそう励まされていた。しかし、グレゴール氏のように、自分が自分でなくなるような決定的な不幸があったら?もしくは、生きてるだけで家族にとってのお荷物となってしまうことが明らかである場合は?それでも生きていくことが大切だと言えるのだろうか。グレゴール氏にとってはハッピーエンドだったのかバッドエンドだったのか、私には正直分からなかった、これも読解力の無さだったらもっと鍛えなければならないと思うが、そんな単純な話なのだろうか。自分を自分であるといえる証拠、それは私にとってはなんなんだろう。もし朝起きて虫になってしまったら、私は私であることを主張しようともう私ではないのかもしれない。今こうして、ブログを書き、思考し、自分の考えを発信できているからこそ、私は私なのかもしれない。

蓮ちゃんの読書感想文7/4

突然ですけど7月は蓮ちゃんの中で読書強化月間という訳では無いですが教養を深めたいと思ったのでバイトない日は1冊ペースで青空文庫で読めるものは読んでいこっかなって思いました。

 

第1弾 『人間失格太宰治

 

感想

読んだ人が絶賛してたり、有名な作家が尊敬してたりする太宰治の代表作と言っても過言ではない人間失格、蓮ちゃんはこの歳になるまで読んだことがなく何となく人間社会に適合出来なかった話だと聞いていましたがまさに聞いてた通りの感じでした。かなり文学的な感じなのかと思いきや手記と作中で書かれている通り主観で話が進んでいく感じは蓮ちゃんは嫌いじゃなかったです。というか現代に生きる蓮ちゃんでも読みやすかったかなと。

内容に関して正直なところ共感は余りできなかったかなという感じです。人間が怖く、道化を演じていた葉蔵に共感を感じる人も多いと聞きます。これは私の物語だと思う人もいるそうですね。人間が怖いという気持ちが分からなくはないし、道化を演じる他なかったという葉蔵の生い立ちや性格は現代においては珍しいことでは無いのではと思いました。それを適合出来ないと文章に綴り1本の物語にすることは才能だと思いますが、SNSが発達した現代は140文字で人間失格を表現する人間などいっぱいいると思うのです。まあそんなわけで、葉蔵のような人間が人間失格なのではなく、人間失格であるところを見せない人間が人間なのかもしれません、いやそんな単純な話では無いのかもしれませんね。なんにせよ生きるのは非常に難しい。気持ちもなにも分からない他の人間と関わり合いながら、生きるのは今も昔も難しいということです。ただ、陰鬱で何も出来ない侘しい人間をそうと感じさせない、そういうことが求められる社会です。生きづらい人がいると思います、ですが、それが当たり前なのだと思います。葉蔵が人間失格ならば、人間は全て失格なのでは、と思いました。

例えクソデカ感情を抱いていなくても

 

父の日に初めてプレゼントを渡した。次の日、私は普通にしてるつもりなのに機嫌が悪いとか言われた。母はそういう性格だから理解してあげてと父に言ってたけど、何故、私が理解される立場にあるのか、父の日だから好意を持ってした行為が(ダジャレではありません)全部ブーメランになって返ってくるみたいでちょっと落ち込んだ。けど一瞬で忘れることにした。毎日愛想が良くないと、機嫌が良くないと、すぐ難癖つけてくる君らの方がおかしいだろ。人間だからそういう日もあるやんて、まあわかんない人はわかんないんだろな。気分の上下が短所でもあるし長所でもあるってわかってほしいとか言っても、人間は自分の都合のいいところしか見えないんだよ、どこまで行っても。自分の事しか考えられないんだから、他人の気持ちまで求めちゃダメだな。はい。

はい、そんなに気にしてないことをダラダラと愚痴のように書き続けることは苦手ではありません。あまり現実世界で喋る人もいないのでずっと頭の中で考え、そして考え、結果よく分からんとなります。途中で自分が間違えてるよー!とか指摘してくれる人がいたら間違えてるのかな…?と立ち止まることは出来たのでしょうが、とりあえず突き進むしかありません。その先に何が待ってようと、私も誰も知る由を得ません。その生活に少し疲れたので現実逃避をずっとこの半年してます。嫌なとこは見ず、嫌なことはしない。ストレスがもう対処出来ないので、嫌なことをやり続けるのは難しいです。辛いことをつらいー!出来ないー!って言うのは罪なのでしょうか、あまりにも声をあげない人が多いので、ほんとにそれで大丈夫…?という人が結構いる気がします。そしてそれが美学だと認識されがちな社会になっています。その結果身体を壊さなかったら良いのですが。私みたいに疲れたー!とか出来ないー!とか言っても身体にガタがくるので結構人生詰んでます。どうしよう。

 

機嫌がずっと良いなんて無理じゃないですか、嫌なことがあったらどうしようってなるのが人間だし、つまんねえなと思ったらそりゃ機嫌が悪くなります、分かりますけど、それを相手に出さないことこそ二面性を極めた人間であると思うのでそういう人は尊敬できますね。ずっと明るかったりずっと暗かったり、人の前で何も言わない人。でも窮屈な生活だなあと思いもします。私はそういう生き方に憧れはしますが二面性を持つことがしんどいと豪語しているので私には無理かなあと思ったりしなかったり、いやでもやれるだけやりたいなと思ったりしなかったり…。機嫌がずっと良いフリをしたからと言って他者の評価が上がったりする訳じゃないですもんね、でも素の私でいてこういう性格だからと弁解をしなきゃいけないのはなんだかなあと思ったりします。

moment

 

人生において1番誰にとっても平等であるものは時間である。

もし寿命が短い人や長い人は本当に平等なのですか?という質問が来たら私は反論できないけれど、私と同じ21歳を過ごす今こうして2020/06/27を過ごしている時間は平等である、という意味で捉えて欲しい。

時間は平等であると共にすごく残酷である。

感情は一時のものである、時間とともに感情は薄れていく、その薄れていくまでにかかる時間は人それぞれだけれど、必ず忘却はやってくる。また忘却と共に変化が訪れる。昔読んだ本を読み返す行為に意味があるのはこういうことがあるからだろう。でも私は読み返すことはしない、それはその時に感じた感情を忘れてしまうのが怖いからだ。物語や人の感情、伝えたいことを時間をおいて2回聞いてしまうと少なからず変化してしまう。それは影響を与える側が変わらなくても、受け取る私が変化してしまったからである。もし与える側が人間だった場合、与える側も変化している。だから、当時聞いた話をもう一度聞いても違う意味に聞こえてしまうことがあるかもしれない。

だからその瞬間の感情を大切にしなくてはならない。もうずっと永劫変わらない人なんか居ない、他人の影響を受けることが多い、そういう繋がる手段が増えてしまった現在では、他の人の影響が大きすぎる。変わらないままで努めても年齢を重ねて社会的立ち位置が変わると人間は変わってしまう、それは時として成功でもあれば残酷でもある。あと5年後私が何を思って何をしているのかは分からない。だから今の感情を大切にしなくてはならない。もう二度と私は人間の変化について考えることも無くなってあの子変わったよねって言われるまで気づかないことだってあるかもしれない。でも、あの子変わったよね、と発信している側も変わってしまっていて、なにがホントでなにが間違いなのかすら分からなくなってくる。変わらないことは無い、環境においても、世界においても、これから先、私はずっとバイトばかりして生活する訳にはいかないし、地球温暖化が進めば日本だって沈むかもしれない。ミサイルだって飛んでくるかもしれない。ありえない変化だって起こるかもしれない。不変であり続けることは無理だ。影響を与えられ与え続ける限り、社会的生活を送る限り、不変は無理だ、人間は嫌でも年老いていく、嫌でも死んでしまう。

だからその瞬間を、ずっと、ずっと、永遠のものにしないといけない。今あなたが抱いている感情も、今あなたがいる環境も、10年後、20年後続いてる保証はない。瞬間をどうすれば保存できるのかは分からない。けれど忘れてしまうことが1番怖いのではないかと思う。なるべく、鮮明に、ずっと覚えておくことが大切だと思う。それが、不変であることの代わりのことだと思う。あなたの今抱いている尊いものがそのまま価値あるものであることにするために、今のことを忘れてはいけない。

 

だから私はこうしてずっとブログを書くよ、面白くなくても、今の私が1番最高でしょう?という気持ちで。

二次関数の上に凸なグラフ的な人生ではなく最高点をずっといく横のグラフ。変化があったって、その瞬間に感じたことは全て本物だから、変わってしまったなんて思わなくていい、自分も変わってしまったし相手も変わってしまったんだ。ただただ、瞬間を大切に出来ずに昔が良かったと過去に縋るのは愚かだから、ずっと忘れないで心のシャッターにとめておく。それかブログをかく。